ID:snmyatoの記録

久遠の花の導き

 幽かの声に惹かれるまま、仮宿の窓を開けた。夜も更けた外に人気はなく。歌声の主の姿も見当たらない。
黒紺の空に浮かぶ、細い月を見上げてから。肌を撫でる澄んだ夜気に小さく身を震わせ、室内に視線を戻すと。

「よう。我が――じゃなかった、エセルの末裔よ」

いつかの夢で見た、忘れ去られた初代の王が。実に気安い態度でもって、片手を挙げた。

「なん……!?」
「ははは。いやー、俺にもよくわからねえんだな。これが」

 よく分からないと言いつつも、狼狽える様子もなく落ち着いているように見えるのは何故だろう。
というか、普通に会話出来ているのはどういうことなのか。記憶を垣間見る、一方的なものとは違うのか。
 きょろきょろと室内を見回していた初代は、椅子ではなくベッドに腰を下ろした。
普通、そこは部屋の主が――借りている身分だから、仮ではあるが――座る場所だろうが。
 釈然としない思いを抱えながら、自分も木の椅子に座った。

「ま、折角の機会だし。何か話そうぜ。聞きたいことがありゃあ、答えられる範囲で答えよう」

緩く首を傾けた初代。眼の色こそ違えど、 鏡を見ているような気分になる。

「んなこと言われても……」

今のドッキリで、疑問だったことも何もかも吹き飛んでしまった。

「突然すぎて思い浮かばねぇか。じゃあ、俺からひとつ。聞きたいことっつーより、忠告? みたいな?」

 いまいち威厳に欠ける物言いに、こんなのが本当に王だったのかと疑念が生じるが。
この場でわざわざ、話を持ち出したのだ。聞いておいて損はないだろう。たぶん。
 隠しきれなかった胡乱げな視線も何のその。全く気にしていない初代が続ける。

「お前のその眼。使い所を間違えるなよ。それは俺の青よりも数段ヤバい代物だ。魔女あいつが迂闊に言及出来ねえ程の、な」
「はあ? そんなもん、あるわけ」
「ある。お前に青が現れていないのが、何よりの証拠だ」
「…………仮に、そうだとして。何であんたが知ってるんだよ」
「力の殆どをイリスに渡したとはいえ、モノを視るくらいは可能でね。まあ、俺の眼については今更必要ないだろ」

同じ貌の王が、微かに苦笑を浮かべた。

「とにかくだ。眼を使うなとは言わねえが、使うべき時を見極めろ。お前が巻き込むと決めた、あの子の傍に居たいのならば」

真剣な低い声が、落ちた。――のも、束の間。

「……それにしても。随分と可愛らしいお嬢さんを引っ掛けたもんだなぁ。ご先祖様はびっくりです」
「なっ……引っ掛けてねえし!! つか、あんたは直接の先祖じゃねぇだろうが!」

 テーブルに置いてあった林檎を掴み、自称ご先祖様のにやにや顔に向かって投げつける。
が、片手で難なく受け止められてしまった。そうなると予想がついていても、腹が立つ。

「ある意味、血よりも濃い繋がりだろ? 俺とお前は根が同じなんだから。でもまさか、あんなことするなんてなー」

 あんなことって一体なんだ。揶揄のネタになるようなことは――たぶん、ない。はず。
身に覚えがなくとも、嫌な予感から思わず、構えを取れば。初代はにたりと、愉しそうに笑った。

「深き地に眠る黄金の太陽を贈るだなんて、なかなか出来る芸当じゃねえぞ」
「! あ、あれは、そもそも……あの時はまだ……」
「知ってる。俺が驚いたのは渡した物とか、石言葉じゃなくて」

ベッドから立ち上がった初代が、持っていた林檎をこちらに放った。

「 " 本来の色 " を贈ったことに、だよ。それが偶然だったとしてもな」

 ぱし、と。投げ返された果実を受け取る。言葉の意味が分からず、問おうと口を開きかけて――止まる。
初代の深い青の双眸、その片方が。部屋の灯りを受けて煌めく、鮮やかな翠へと変わっていた。
けれどそれは、刹那の揺らぎ、瞬きの間の幻だったのか。次の瞬間にはもう、翠の色彩は何処にもなく。

「強引に引っ張り上げられた時は、何事かと思ったが……。短い時間だったけど、話せて楽しかったぜ」

 情報を上手く飲み込めない頭に、乗せられた手。触れているはずなのに、体温も、感触も、伝わってこない。
何も言えないまま呆然と、かの王を見上げれば。年長者特有の、後続を見守る淡い笑みが向けられた。


「識の深青でも、天の黄金でもない、その平穏いろを。いつか取り戻せるといいな」


 遠く響いていた歌声が途絶え。ひとときの邂逅、泡沫の夢も終わりを告げる。
部屋の片隅、花瓶に挿した黄金の花が消えていることに気付いたのは、大分後のことだった。