ID:yabukinokoの記録

漂う香りの道筋

「ああ、そうだな。行こう」

一言それだけ返すと、彼女は帽子を深く被り直した。それが去り際のメッセージなのか、魔術的な意味を成すのか、それとも単に顔を見せたくなかったのか。それは彼女にしかわからない。彼女は既に『フローリア』を語る物語から逸脱してしまった。

かくして『フローリア』の短編集アンソロジーは一旦幕を閉じる。主著者の一人に曰く、個を得た彼女らはこれから各々別の長編エグジスタンスを綴っていくからだ。フローリアであることを辞めたもの、フローリアであり続ける道を選んだもの、そしてフローリアでありながら新たな役を得たエゴイスト。彼女らの辿る道筋はここでは語り得ぬことだが、ある程度予測がつく者もいる。

暗い闇街で傷を医す木魂エコー、平和な国で探求を続ける幽香カオリ、馴染みの世界で学びを与える妄望モルセラ、その他好き勝手殺し合ったり曲芸したりするのであろう悪霊フローリア。多くの世界に散った8つと1つがまた集うことはあるのか。それは、彼女たち自身も知り得ぬことだろう。

ただし、それを意図的に生み出すのであれば話は変わる。その術を得ることができるか、その意義を感じるかも彼女ら個人の勝手なのだ。『フローリア』は既にレギオンの体制を成さず、個人名としては形骸化した。

それでも、その名に意義を感じるかもまた個人の勝手だ。






名前は最も重要な識別記号である。それは社会的に、同時に魔術的にも大きな意味を持つ。同じ名前を持つだけで縁が繋がり、それを辿って魔術のパスを繋げる特殊な手法まであるのだという。月には柑橘の香りが満ちた。地下にも世界を跨ぎ得る種を植えた。他の元自分との縁もこうして。元の名を捨てるなどとは一度も明言していない彼女は、帽子の下で期待に満ちた笑みを浮かべている。

そして、帰路の門をくぐった。